素材の本質の中に-ヒューマニズムの限界-

現在の問題

《神が人間をつくったのか? 人間が神をつくったのか?》

神や精神が世界や物質をつくったのではなく、世界が物質が、人間という頭脳が、精神や神、物質以外のものをつくったのである。人間の精神の底辺は物質である。人間の精神、心はその物質的環境を底辺に持ち、そこを良くしない限り人間の心は良くはならない。その物質環境の基本因子は、社会にあてはめると「経済」である。「金」である。つまり利潤を目的とする生産を、そのような環境を正さない限り、その社会の中にいる人間は幸福にはなれない。
「唯物論」である。「資本論」である。資本主義に唯一本質的に対峙する哲学、思想と考えられて、その思想によって多くの犠牲の上に国がつくられた。社会主義国であり、共産主義国である。今ここで、両者の是非を論ずるつもりはない。しかし、それは避けて通ることのできぬ人類の大問題であったことは確かである。

《資本主義も社会主義も同じ生産の上に成り立つ》

資本主義社会の矛盾を直すために、社会主義は計画経済を唱え、疎外されぬ労働を目指す。資本主義的生産の発展と高度化を受け継ぎながらも、社会主義的労働は神聖なものとなり、ここに人道的ヒューマニズムとでも言えよう理想の社会が完結する、と……。
社会主義もあくまで人間労働を、いや生産主義を讃美し、社会の発展を目指す。何度も言うが、ここで資本主義、社会主義の是非を問うつもりはない。ただ言えることは、唯一資本主義からの救い手とみなされた社会主義的構造も、地球の生態系にとっては、同じ「負荷」であったということである。

かつてのベルリンの壁。今はない。塀の右側が旧東ドイツ(社会主義国であった)

《人間にとっての生産力は自然にとっては破壊力》

人類は利潤のため、いや利便のために大量の酸素を燃やし続け、二酸化炭素を放出しまくり、地球温暖化の問題が引き起こされただけでなく、かつてバクテリア、原始生物が20億年以上かけてつくった酸素と、紫外線が反応して出来たオゾン層に穴をあけて今までの地球を台無しに、いや破壊しようとしている。人類はそうした行為を「生産」と呼んでいるが、地球、いや自然生態系にとっては破壊行為となっている。それは資本主義的「疎外された労働」であろうが、社会主義的「疎外されていない労働」であろうが、資本主義的「商品労働」であろうが、社会主義的「計画経済労働」であろうが、かわりはない。
マルクス主義は、人間の人間に対する搾取は問題にしたが、人間の「自然」に対する搾取は問題にし得なかったといえよう。社会的労働も高度化すればするほど、また生産力が増大すればするほど、地球にとっての負荷が増し、自然生態系の破壊が進むということになるのではないか。

《環境問題は人災である》

現代、問題視されている環境問題、酸性雨、異常気象、洪水、砂漠化、森林破壊、水問題、資源問題、これらは、全てここにきて、人間が引き起こした問題である、とは「不都合の真実」として現在広く知られるようになってきたようである。環境問題とは何ら関係ないと思われていたエイズ問題もまた、もともと環境破壊が原因で、人災であることがわかったという。
環境破壊によって、絶滅の危機に瀕したミドリザルに宿っていたエイズウィルスは、その自らの延命を掛けて人類に寄生しだし、もともとはおとなしいウィルスだが人間に寄生するようになって突然変異し、凶悪化したといわれる。

《自然の鎖の輪を断ち切った人類》

その原因となっている人類も、遠い昔は食物連鎖という自然界の掟に従って生きていた。直立歩行により自由となった手で「道具」を使い、自分達よりも大きい動物をしとめることができるようになる。人類はついに自然界の食物連鎖のトップに立つことになった。
そして、もう一つ大きな転機は、農耕社会の形成であろう。獲物を求めて移動生活をしていた人類に画期的なことが起る。農耕、牧畜社会の形成である。植物の作物化と動物の家畜化により、旧石器時代とは比べものにならない規模の生産力を自然から引き出すことになった。もちろん自然の恵み、土、水等の存在あってのことは言うまでもない。これは、人類の自然支配のスタートと言っても過言ではなかろう。定住により寿命は延び、知識も蓄えられ、そう、文明の出発点ともなった。それはまた、自然の支配、破壊を飛躍的に増大させるとともに、人口の急増をもたらしたといえよう。

世界経済と人口、食糧、環境の予想図
世界経済と人口、食糧、環境の予想図

《自然破壊を激化させる大量生産・大量消費》

それ以後、人口は急激に増していくことになる。産業革命の直後には、人類は約10億人に達する。それは、前述の農耕文明以降の漸進的な人口増の結果であった。ところが、それ以降の人口の増加は、100年後2倍の約20億人。その50年後に、その倍の約40億人、1999年には60億人を越えてしまった。これはもう、農耕革命どころではない。人類は、過去数百万年かかって増加してきた人口を、産業革命以降の200年足らずで驚異的な増化直線、いや曲線で更新したことになる。人口の増加は、今や地球の許容力を越えようとしているといわれる。いや、もうとっくに越えてしまっているのかもしれない。
過去1万年で人口が約1000倍となり、1人の使うエネルギーも約100倍となった。つまり、1000×100=約10万倍のエネルギーが地球にとって増えたことになると、先日テレビで放映していた。しかも、地球が生まれたのを1年前と例えると、産業革命が起きたのはつい2秒前ということになり、つまり、地球にとっては一瞬の間に増大な負荷が与えられ、自然の生態系の破壊がなされているということになる。

《それまでのレベルとは異なる自然破壊》

生産力のほとんどが労働力である限り、その自然に対する破壊力はしれたものであり、木材の燃焼による火のエネルギー、火力の利用が加えられても地球全体の生態系への致命的な破壊力にはならなかったといわれる。人間による大地の耕作は森林を破壊し土壌を劣化させ、いくつもの地域を不毛の地にしていったが、それでも産業革命以前に行われた自然破壊は、産業革命以後のものに比べれば、ほんの微々たるものでしかなかったといわれる。産業革命以後は、過去をはるかに上回る規模で破壊が進んだことになる。
産業革命は、人類による自然破壊の次元を全く変えたようである。生産のエネルギー源が木材等ではなく、地球に何億年もかけて蓄積した化石燃料となったことが決定的であった。生産力の発展により、人間は無限に発展していくという生産力賛美、自然を利用、征服できるという科学技術賛美も大いに拍車をかけ、大量の農民が大地から引き離され、「自由な街の労働者」になっていったことと同時である。

《自然の系とは違う別個の系で生きる人間の大群》

自然の中から生まれ自然と共に生きてきた人間が、今やその自然を、いわば育ててくれた「親」を食いものにし、ゴミ捨て場にする大群として、歴史上に登場したことになる。すねかじりの大群である。自然とは別のサイクルの「人間系の閉じた社会」の完成である。その中では「あいまいなもの」は許されず、その系の維持、・そしてその系の確固たる目的にあった性能の追求が賛美される。
「新建材」しかりである。そうした人間の大群と機械、そして太古より眠っていた地球上の物質「石炭」「石油」とが結合し、「産業」と転化した時、それは人間の系の閉じた中で回転運動となり、人間にとっては喜ばしき「生産力」となり、自然にとってはそれまでの歴史上のレベルとは異なる自然の大破壊となる。人間のストレス(?)、人道的ヒューマニズム(?)どころではない。閉じた系の中での機能主義、性能主義、いやヒューマニズムそのもの、人間中心主義という価値観の限界ではないのか? もうそれ以前の地域的、部分的環境破壊というレベルではなく、20世紀以後の大量生産、大量消費文明が行ったのは地球環境そのものの大破壊だったのではないのか。