循環の思想

《価値の転換》

私には、今まで述べてきたような問題をとり上げるだけの知識も資格も無いということは、よくわかっているが、どうしても社会の価値観というようなものに少なからず関与する、建築設計という仕事上、避けて通ることのできぬ問題であり、稿を進めることをお許し願いたい。しいて言えば、自分で自分の建築的倫理観を問う姿と思っていただければと思う。しかしまた、そうすることが免罪符とならぬように。
さて、地球環境問題を解決、いやすこしでも改善するための方法というのは、今やもう耳にタコができるくらい聞いている循環型社会の実現。これしかないといわれている。唯一これ以外にはないと。もともと、人間自身は自然生態系の一部であり、かつて自然生態系の中に人間の生活が組み入れられていた時代があったといわれている。日本の縄文時代であると。 一部食物の栽培を併用していたか否かという問題は別としても、狩猟採集を主として定住生活を営み、約1万年もの長きに存在したのは日本独特ともいわれている。自然との共生、循環を意識せず行い、動植物と人間とを区別しない世界観から成り立っていたといわれる縄文。以後は、自然支配型の農耕牧畜文明にとって代わられることになる。農耕牧畜をその気候風土上、いち早く組み入れざるを得ず、その中でも自然との共存、循環の生活を営んだともいわれる西欧のケルトと時代を前後している。

《2つの縄文》

「照葉樹林文化」という言葉がある。日本の文化の基礎が、シイやカシといった照葉樹林(常緑広葉樹中心の森)が広がる南西日本の縄文時代にあるという考えである。しかし、遺跡の数からもわかるとおり、かつての縄文文化の中心は東日本であった。落葉広葉樹である「ブナ」を中心とした「ブナ帯文化」である。
ブナの森は明るい。落ち葉が堆積して土をつくり、何百年もかけてその土が水をつくり、その水がまた豊かな山の幸、そして川海に恵の幸をもたらす。それに比べ、西日本中心の照葉樹林の中は、落葉しないために一年中暗く湿気が多く、食料も少ない。そこに稲作が入ると、こぞって人々は水田や畑を大規模に作り出す。全てが自然のまま循環されて、狩猟採集でまかなわれていた生活が、またたく問に稲作を中心とする文明にとって代わられることになる。それは、人間と動物、植物を本来同一のものと考える思想ではなく、はっきりと人間と動植物との間に線を引き、人間の意志下にしようとする思想を秘めているといってもよいであろう。人間の住むのに都合のよいように、自然を変えていこうとする考えが感じられる。もともと土地の痩せている西欧では、いち早く農耕牧畜により森林を食いつくし、それがまた、その人工化に拍車をかけたといわれる。その中でも、循環の思想、生活に近かったといわれるケルトの民と、どこか日本の縄文に合い通じるものを感ずるのは、似ている「うず巻文様」のせいだけではなかろう。

ブナの森。明るい。白神山地
ブナの森。明るい。白神山地

《滅びゆくものを悔いる、または滅びゆくものを愛でる》

いずれにしても、縄文もケルトも追われるように消えていく。いや、とって代わられるといった方が適切かもしれない。西欧ではそれを悔いる(?)ようにロマネスク教会が残る。日本の豊かな「自然」の中に、また西欧の乾いた石積の空間に、脈々と流れる共通した美しさを感ずるのは私だけであろうか? それにしても、縄文の、いやブナの森は明るい! そして美しい!かつては敗者となったブナの縄文。その明るさを本当に愛しいと思えるのは、一度は日本で同じ敗者でもあった、薄暗い照葉の森の魂だけからかもしれない。ちょうど「茶の湯」の作法のように……。

照葉樹林帯の森、宮崎県綾町。 2006年10月
照葉樹林帯の森、宮崎県綾町。 2006年10月

2006年10月。ブナの森。同じ時期の照葉樹林の森との比較
2006年10月。ブナの森。同じ時期の照葉樹林の森との比較

《戻ることは出来ない》

現代の環境破壊が、現代の人間の作り出した文明の結果であり、しからばその理想像を江戸の循環型経済に、いや農耕社会以前の縄文に、遠くケルトに、またそれ以前のアニミズムに求めるという考え。それは、生産力と人口の問題、社会構成の問題等、過去を参照にはできても、後戻りはできない。後戻りできるくらいなら、環境問題は起らないのである。今の文明を否定してしまえば、解決するという考えは、今、現代を生きている以上無理なことといえよう。それでは、現代の文明を認めながらの循環社会ということになるのだが……。

《いま、ここ、かけがえのないという考え》

かつて人類は、自らの居場所がいろいろな意味で限界に達し、そこでの延命が不可能であると判断した時、集団で移動した。遠く縄文人しかり、はるかケルト人しかり。だが今日、もはやどこにも移動すべきフロンティアは残されていない。人類は宇宙船地球号から、もはや逃げ出すことはできないのである。「どこかにある」ではなく、「ここにしかない……」と。「いつかある」ではなく、「今でしかない……」と。代替品、代替地はないという考え。理想? あるとしてもそれは、今、ここにという考えでしか存在できないということ。そう、かけがえのない今、ここ。

《物にたよることのない楽しさ・豊かさ》

人類が現在保有する核爆弾の、何万倍もの破壊力を持った隕石の衝突で、地上の大部分の生物が死に絶えても、今日のような生態系を創造するだけの力を持っている地球。地球を守るという考え自体が、人間中心主義から生まれたものであり、人間は地球にとって新参者であり、自然の片隅に、自然によってかろうじて存在が許された生物なのであるということを「自覚」すること。そして、個々人の物質的欲求や、幸福の追求から出発する価値観から、地球生態系の「美」を規範とする価値観への転換。それは、人間がいない方が良いというのではなく、つまり人間が、自然生態系の循環にとって重要な一部に、そして必要な存在になることが求められ、問われることになるのであろうということである。
人間系の閉じた中での生産された、人間系にとって便利な「物」にたよることのない、自然と連絡した循環した、各人の王道のない個性的な生活を歩むことに価値を置く、豊かな時間。 ― シンプルな生活 ― 提案である。

《地球に負荷を極力与えないという考え方》

要は、地球に負荷を極力与えないという考え方が求められよう。縮小。循環。やはり、循環以外は一時しのぎということかもしれないが、いずれにしろ、負荷を与えないということが急務ではないのか。科学技術も、もちろんその負荷の軽減のためにというごとになろう。と同時に、人間は地球にとって潤滑油という脇役になるという考えも必要なことと思われる。ヒトとしての英知と感性の総力をそこに向けること。同時に、労働の意味も喜びも、そこに存在することとなるのではないか。あくまで自然の恵みの中で。